暮しの手帳に掲載された花森安治の遺言とは?
昭和44(1969)年2月、花森安治は京都のホテルで突如倒れる。花森は京都で結核専門医兼小児科医の松田道雄と会っていたが、その歓談後の出来事だった。ホテルの医者は入院を勧めたが、花森はこれを拒否する。そこで同行した編集部員が松田に連絡し、何とか説得して京都の病院に入院させることにした。
花森安治は心筋梗塞で長期入院
このとき花森安治は57歳。体重も80キロを超え、心臓病や気管支炎といった病気を抱えていた。診察の結果は心筋梗塞で、長期入院を強いられることになった。だが花森が仕事を辞めることはなく、引き続き病室で原稿を書き、写真や誌面のチェックを行う。
その間、編集部員が交代で京都にやってきて、花森の指示を受けていた。そして2カ月後に退院したが、その後は酒を断ち、タバコもやめて糖分も控えるようになった。
昭和46(1971)年、花森は17年ぶりの自著『一戔五厘の旗』を刊行し、翌年には第23回読売文学賞を受賞。この頃の花森は『暮しの手帖』誌上で水俣病などの公害を批判するなど、人の生命や幸福を平然と奪う企業や政府に対し、怒りの声をあげている。大病を患い「時間がない」と感じ、このような行動に出たのかもしれない。
花森安治の遺言を大橋鎭子がメモ
昭和52年(1977)11月29日、花森安治は体調を崩して都内の病院に入院する。大橋鎭子は編集の打ち合わせや、仕事の進行具合を報告するため、ほぼ毎日病院を訪れていた。12月20日には一度退院し、第二世紀第52号の表紙を仕上げている。
そして残っていた原稿も完成させたが、28日には鎭子を呼び、「ぼくが死んだときの号のあとがきに、ぼくの遺言を載せてほしい」といってきた。鎭子はそれを冗談だと思っていたが、そういう様子ではなかったので、慌ててメモをとった。
昭和53年(1978)1月13日の夜、花森は息が苦しくなり、夫人に背中をさすってもらった。そしてしばらく居間のソファーに座っていたが、そのまま息を引き取る。享年66。死因は心筋梗塞だった。
花森の死後に刊行された第二世紀第53号には、鎭子が年末にメモした花森の「遺言」が掲載された。そこには『暮しの手帖』を愛読する読者に対する感謝の気持ちと、今後も引き続き読んでいってほしいという花森の願いが綴られていた。そして鎭子ら編集部員は花森の遺志を継ぎ、人々の暮しに役立つ雑誌づくりにさらに邁進したのである。
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