夏目友人帳は妖怪と神を明確に区別しない考え方
「妖怪」を定義するのは、実はかなりの難問です。妖怪を研究している人の間でも、様々な見解が提唱されていて、定説と呼べるものはありません。それでは「夏目友人帳」は妖怪をどのような存在として定義しているのでしょう? どうやら夏目友人帳は妖怪と神を明確に区別しない考え方のようです。
妖怪を定義することは難しい
例えば、幽霊を妖怪に含めるかについて、妖怪学という学問を最初に提唱した井上円了は、幽霊を妖怪に含めてしまいます。これに対して、民俗学者として有名な柳田國男は、特定の場所に現れるのは妖怪、特定の人のところに現れるのは幽霊といった幾つかの区別の基準を提唱しましています。
そして、近世の文学・芸能を研究者である諏訪春雄は、人以外の形で出現するものは妖怪、人が死後に人の属性を備えて出現するものは幽霊と区別しています。
幽霊との区別一つをとっても、このように様々な見解があります。簡単に妖怪を定義することはやはり難しいといえるのです。
妖怪を三つに分類する学者の説
そこで、一つの例として、妖怪を三つに分類する文化人類学者の小松和彦の説を紹介します。彼は妖怪を、1つめは出来事・現象としての妖怪、2つめは存在としての妖怪、3つめは造形化された妖怪の三つに分類します。
例えば、正体不明の音が聞こえたときに、この現象を妖怪と考える段階が1つめです。山奥で木を切り倒す音を聞いて「天狗倒し」、川で聞こえる小豆を洗う音を聞いて「小豆あらい」と表現する場合がこれにあたります。
2つめの段階では、不思議な出来事は、霊的存在としての妖怪の仕業であると考えられるようになります。天狗や小豆あらいが、神秘的な存在(一種の生き物)として肯定されます。
夏目友人帳の妖怪の考え方とは
そして、1つめや2つめの妖怪が絵巻物などに描かれることで具体的なイメージが与えられたものが3つめです。3つめでは人びとに妖怪のイメージが共有されるようになります。
そして、小松によれば、人びとに祭祀されるものは、妖怪ではなく神として扱われます。例えば、天狗や河童などは、妖怪として扱う地域と、神として扱う地域がありますが、それを分けているのは、人々が祭祀しているかどうかであると考えます。
これは、第二話でツユカミが物怪から神として祀られる存在になったように、「夏目友人帳」でも度々登場する考え方です。作中では、「神格の妖」という神と妖怪のどちらの性質も持っているような存在が描かれていますが、神と妖怪を明確に区別しない考え方は、小松の説と整合的です。
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