おんな城主・直虎が徳政令を実施しなかった理由
井伊家第22代当主直盛の一人娘は、出家して龍潭寺に入り次郎法師を名のったが、井伊家存続の危機に際し、おんな城主・直虎となった。その後、直虎は直親の遺児を育てながら、井伊家の当主として政務に取り組む。井伊家の経済基盤を守るため、直虎は徳政令を実施せずに商家を守ったのである。
直虎のようなおんな城主が誕生した
直虎の時代、家督は男子が継ぐものというのが一般的である。しかし、男子がいない場合、一時的に娘に家督を譲った。とくに戦国の世では男が戦死することもあり、直虎のような「おんな城主」が誕生したのである。
直虎は直親の遺児・虎松を後見しながら、井伊家の当主として政務に取り組んだ。1566年(永禄9)、今川氏真は井伊谷および都田川流域に徳政令を発布した。徳政令とは債権・債務の契約を破棄する法令で、借り手は救われるが、貸し手である商人や寺は立ち行かなくなる。
相次ぐ戦乱によって、井伊谷は疲弊していた。井伊家の経済は、古来から付き合いのあった井伊谷の豪商たちに依存していた。いまそうした豪商が倒れれば、井伊家は経済基盤を失う。直虎は徳政令を実施せず、商家を守ったのである。
直虎は徳川家康に臣従する道を選ぶ
1568年(永禄11)、ついに今川家の圧力によって徳政令は強行される。徳政令に抵抗したおんな城主・直虎は追放され、龍潭寺に身を寄せた。虎松は南渓和尚によって、三河の鳳来寺に逃れた。
直虎に代わって、奸臣・小野政次が井伊谷の支配者となった。しかし、政次の栄華も長くは続かなかった。
甲斐国の武田信玄が今川家との同盟を破棄。(松平元康改め)徳川家康と密約を結び、駿河国・遠江国へ侵攻したのである。小野政次は今川家に従って出陣するが、今川勢はあっけなく武田の軍門に降る。
さらに、徳川の兵が井伊谷へ進軍し、ついに小野政次は捕縛される。直親を陥れた罪で宿敵・小野政次は処刑され、井伊家は復権を果たす。直虎は徳川家康に臣従する道を選び、井伊家を守り抜いたのである。
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