吉本の東京進出と関東大震災の意外なつながり
上方では明治期に落語が全盛を迎えたが、東京でも状況は同様だった。しかしながら、明治末期になると新しい娯楽が台頭し、徐々にその勢いを落としていく。それでも、大正期の東京落語は一流演芸の地位を保ち続けていた。とくに浅草の賑わいは、千日前のそれをはるかに凌いでいたのだった。
吉本が東京に寄席を開いた翌年に震災
わずか10年足らずで上方演芸を席巻した吉本の次の狙いは、そんな東京の一流芸人を大阪の寄席に出演させること。だが東京の芸人は気位が高く、いくら呼び掛けても応じなかった。そこで、まずは自分たちが東京に出向き、芸を披露することにしたのである。
使ったのは当時人気の安来節。大正10(1921)年11月、吉本は浅草六区の御国座を借りて安来節家元・渡辺お糸一座の公演を行った。2週間の公演は盛況を呈し、横浜座や深川の辰巳劇場にも出演することになる。その後、すでに買収してあった神田神保町の川竹亭を翌年の元旦から「神田花月」として開場している。
こうして吉本が東京に寄席を開いた翌年、9月1日に関東大震災が起こる。マグニチュード7・9の大地震は関東全域で10万人以上の死者・行方不明者を出し、東京・横浜の寄席はことごとく焼け落ちた。
吉本の東京への本格進出の足がかり
震災から1カ月ほどたった10月初旬、林正之助とふたりの支配人が神戸港から長崎丸で東京へ向かう。このとき、救援物資として100枚以上の毛布も持っていった。正之助が東京へ向かったのは、被災した芸人を見舞う目的もあったが、これを機に東京の芸人とのパイプを築く狙いもあった。
浅草や銀座、横浜はほとんど壊滅状態だったが、正之助一行は吉本と縁がある芸人、さらには三代目柳家小さん、五代目柳亭左楽、初代三遊亭円歌、三代目神田伯山といった東京の一流芸人を見舞った。彼らは皆一様に感激し、東京芸人の吉本に対する評価は著しく上昇したのである。
彼らは、東京の寄席が壊滅状態だったこともあって、次々と来阪。吉本の寄席に出演した。これにより、吉本の名は東京にも知れわたるようになり、その後の東京への本格進出の足がかりになった。
■「『わろてんか』吉本せい」おすすめ記事
『わろてんか』モデルの吉本せいが歩んだ60年
吉本興行創業者・吉本せいの大阪商法の原点とは
吉本せいが悩まされたのが姑のいびりと夫の放蕩
吉本せいが芸人の心をガッチリ掴んだ心配りとは
吉本「花月」の名付け親は売れない落語家だった
「安来節」と「万歳」が吉本芸人の源流だった
■「おんな城主・直虎」おすすめ記事
井伊直政は厳格だったために部下に恐れられた
井伊直政は「高崎」という地名の名付け親だった
次郎法師が直虎と名を改め当主となるまでの経緯
おんな城主・直虎が徳政令を実施しなかった理由