次郎法師が直虎と名を改め当主となるまでの経緯
1554年(天文23)、父・直満を陥れた小野道高が病死する。翌年(弘治1)、亀之丞は井伊谷への帰還を許される。亀之丞が松源寺で暮らし始めて、十年余の月日が過ぎていた。この間、次郎法師は還俗することなく、亀之丞は養子として井伊家に迎えられ、直親と名を改めた。
今川家と松平家の対立が井伊家に影響
直親が後継者と決まり、井伊家も安泰と思われた。しかし、激動の時代の波がまたも襲いかかる。1560年(永禄3)、井伊家の主君・今川義元が尾張国へ侵攻。次郎法師の父・直盛は先鋒大将に任じられ、尾張へ出陣した。
今川軍の兵力は強大で、尾張国の織田信長の兵力を圧倒していた。戦いは今川軍の圧勝に終わるはずだった。しかし、義元は討たれ、直盛も戦死してしまう。
まさかの敗北を喫した今川家は混乱に陥った。この機に乗じて、松平元康(のちの徳川家康)は今川家から独立し、織田家と盟約を結ぶ。今川家と松平家の対立が、井伊家にも影響を与える。
直盛の戦死により、直親が23代当主を継いだ。しかし、小野政次が今川氏真に、直親と松平元康の内通を讒言したのである。直親は申し開きのため氏真の居城に向かうが、途中で謀殺される。政次は、かつて井伊家を陥れた小野道高の子である。小野家は親子二代にわたって、主家に仇をなしたことになる。
次郎法師は直虎と名を改め当主になる
直親が殺害される前年の1561年(永禄4)、正室との間に虎松(のちの直政)という男子が生まれていた。幼い虎松にも誅殺の命が下されるが、今川家の家臣で井伊家の縁戚にあたる新野左馬介が助命を嘆願。虎松は救われ、左馬介の家で養育されることになる。
井伊家の当主は不在となり、やむなく75歳の直平が一族を率いる。その直平も1563年(永禄4)に討死し、虎松を養育していた新野左馬介も1564年(永禄7)、氏真に背いた飯尾連つら竜たつを攻めた浜松・引馬城の戦いで討死にする。ついに虎松は後ろ盾を失い、井伊家は断絶の危機に直面した。
このとき、井伊家の菩提寺である龍潭寺の南渓和尚に妙案が浮かぶ。次郎法師を還俗させ、井伊家の家督を継がせたのである。次郎法師は直虎と名を改め、当主となった。
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