井伊直政は「高崎」という地名の名付け親だった
1597年(慶長2)、井伊直政は家康の命により、高崎に近世城郭を築くことになった。高崎が中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の要衝だったからである。高崎は当時は和田という地名であったが、『高崎志』には次のような伝承がある。
井伊直政が和田を高崎と改めた
平安時代に作られた和田城のあとに、1598年(慶長3)、井伊直政は高崎城を築城した。城が完成したとき井伊直政は、この地を「松が崎」に改めようと思い、日頃から信頼を寄せている箕輪龍門寺の住職・白庵に相談した。
これを聞いた白庵は、「諸木には栄枯があり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。殿様が家康様の命を受けて和田の地に城を築いたのは、大名に出世されたからです。そうであれば『成功高大』の意味を採って『高崎』と名付けたほうがよいのではないでしょうか」と話した。
白庵和尚の含蓄のある言葉を聞いて喜んだ井伊直政は、ただちに和田を高崎と改めた。そして白庵和尚が箕輪から転住した龍広寺の山号に「高崎」の二字を与え、感謝の意を表したという。
井伊直政は高崎に居城を移した
一方、市内赤坂町の恵徳寺では、井伊直政が恵徳寺の住職・龍山永潭に「松崎」と改めようと相談すると、「松は枯れることがあるが、高さには限りがないから『高崎』としては」と進言し、採用されたという伝承がある。
いずれにせよ翌1598年(慶長3)に井伊直政は箕輪から高崎に居城を移し、改築した箕輪城は廃城。城下の民衆たちも大移動することになった。
しかし、井伊直政は番役として京都におり、同年8月には豊臣秀吉が死去。大きな政争に発展していくため、高崎には腰を落ち着けていられなかった。
■「おんな城主・直虎」おすすめ記事
井伊直政は厳格だったために部下に恐れられた
次郎法師が直虎と名を改め当主となるまでの経緯
おんな城主・直虎が徳政令を実施しなかった理由
■「『わろてんか』吉本せい」おすすめ記事
『わろてんか』モデルの吉本せいが歩んだ60年
吉本せいが悩まされたのが姑のいびりと夫の放蕩
「安来節」と「万歳」が吉本芸人の源流だった
吉本の東京進出と関東大震災の意外なつながり