井伊直政は厳格だったために部下に恐れられた
1590年(天正18)8月、井伊直政が上州箕輪(群馬県高崎市)12万石に封ぜられると、その石高に応じた家臣が必要となり、多くの臣下が直政に付けられた。このとき元の箕輪城主で、1566年(永禄9)に武田信玄に滅ぼされた長野業盛の一族である遺児・業実も直政の家臣となっている。
井伊直政はひたすら実直に奉公
では、殿様としての井伊直政の評判はどうであっただろうか。直政は文武に長たけたばかりか、自分の家格に誇りをもっていた。しかし、三河譜代の家臣からみれば新参者に他ならず、それでも筆頭になるほど異例の出世を遂げたのだから、嫉妬や反発の対象になってしまう。
そのため家康にひたすら実直に奉公し、自分に厳しいばかりか、周囲に強要するほど、部下にも厳しかった。『名将言行録』の大久保忠世の項に次のような逸話がある。
井伊直政がまだ「万千代」と呼ばれ、家康の小姓だった1582年(天正10)8月、天正壬午の乱で甲斐若神子城の北条氏直の軍と対峙しているとき、大久保忠世の陣中に招かれた。
井伊直政が忘れない芋の味とは
そこで他の若い武将とともに芋汁を振る舞われるが、戦場ゆえ味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。他の武将たちは芋汁を食べているのに、井伊直政の食は進まない。
忠世が「どうして食べないのか」と尋ねると、井伊直政は「醤油はありませんか」と答えた。このことを聞いた他の武将たちは「ここは戦場だというのにそのようなものがあるわけがないだろう」と口々に非難した。
忠世は井伊直政に、「同僚の者たちはみな同じものを食べている。兵士たちはこのようなものでも満足には食べられない。ましてや農民たちのなかにはもっと苦しい生活をしている者たちもいる。一軍の将になりたいのであれば、士卒を撫ぶ愛あいし、農民を守り育てなくてはならない。この芋の味を絶対に忘れてはならぬぞ」と言った。
井伊直政は盛んに手討ちにした
新参者でありながら若くして抜擢された井伊直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていったとある。残念ながら忠世の「士卒を撫愛する」という訓戒だけは、直政の耳に届かなかったようだ。
上州箕輪城主になった頃から、井伊直政は部下の些細なミスも許さず、盛んに手討ちにしたので“人斬り兵部”と恐れられるようになった。兵部とは直政の官職「兵部少輔」である。
そのため井伊直政に配属された部下は、毎日死ぬ思いで、家族とは毎朝水盃をして出仕したという記録もある。そのため家臣は直政の厳しい軍律に耐えられなくなり、ライバルの本多忠勝のもとへ去る者もいた。井伊家筆頭家老の木俣守勝すら、家康に直参の旗本に戻してくれるよう懇願したほどである。
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