吉本せいが悩まされたのが姑のいびりと夫の放蕩
大阪の荒物問屋「箸吉」の若旦那である吉本吉次郎(のちの吉兵衛)とせいが結婚したのは、明治43(1910)年4月。だが、明治40(1907)年12月頃から実質的な結婚生活が始まっていたようだ。吉次郎が融資を受けるために天神橋筋で米穀商を営む林家を訪ねた際、せいを見初めたのがきっかけといわれる。
吉本せいを待っていた姑のいびり
結婚後、吉次郎は家督を継いで5代目吉兵衛を襲名。ご寮人となったせいを待っていたのは、姑のユキによるいびりだった。彼女は先代の後妻で、吉兵衛にとっては継母に当たる。
せいは賄いの一切を任され、また姑からは過度な節約を押しつけられ、なにかにつけくどくどと嫌味をいわれた。数日の里帰りから戻ったあと、厚子という木綿織物を山ほど洗わされ、手のひらの皮が剥けて血だらけになったこともあったという。
ところが吉兵衛はせいを守らないだけでなく、商売にも真面目に打ち込まず、道楽にふけっていた。当時の大阪では、商家の旦那や若旦那が落語家を連れて歩いたり、自分も舞台に立つなどの芸人道楽が流行っていたが、夫もそのひとりだった。
吉本せいの夫の道楽で破産宣告
「箸吉」の経営は日露戦争後の不況の影響を受け、貸し倒れが急増するなどして苦境に立たされていたのだが、道楽は治らない。芸人のためになにかにつけてはポチ(祝儀)を弾んでいた。
やがて旦那芸として覚えた剣舞にのめり込み、ついには「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という怪しげな一座の太夫元(興行主)になり、地方巡業の旅に出る始末だった。
しかし、ずる賢い地方興行主に騙され、多額の借金を負うなか、家業の荒物問屋は二度も差し押さえを喰らい、ついには破産宣告を受けて、店からの立ち退きを命じられたのだった。
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