「安来節」と「万歳」が吉本芸人の源流だった
上方の寄席の大半を手中に収めた吉本興行部。しかし活動写真など新たな娯楽の前に落語主体の興行の劣勢は明らか。そこで笑いの次の柱として目をつけたのが、「安来節」と「万歳」だった。この安来節と万歳が、現在まで続く吉本芸人の源流ともいえるだろう。
安来節の人気の最大の理由は女踊り
安来節は島根県の安来地方に伝わる民謡で、ひょっとこ顔の踊り手による「どじょうすくい」が有名だが、人気の最大の要因は「女踊り」。着物の裾をからげて踊るお色気が大評判となった。
東京の浅草などで話題となっていたその安来節に注目し、本場の踊り手を吉本へスカウトしたのはせいの弟・正之助だった。たとえば大正11(1922)年、出雲で「手見せ」と称したオーディションを開催し、優れた踊り手たちを発掘する。
後年、吉本興業の社長として多くの興行を手がけ、日本最大級の芸能事務所に育て上げた正之助の成功への第一歩であった。
吉本の寄席にかけられた安来節は、見事な踊りとも相まって諸芸の花形として人気を博した。そのブームは全国へ広がったが、正之助は「安来節の人気もいつかは尻すぼみ」と予見、さらに新しい寄席の芸を探し続けていた。
安来節の合間に数組の万歳師が出演
大正10(1921)年、吉本は大坂一の人気落語家桂春団治を南地花月の高座に上げ、寄席を沸かせていた。ただ全体としての落語は退潮。そこで、正之助が目をつけたのが「万歳」である。
現在では「漫才」と表記するが、昭和初期までは「萬歳」「万歳」が一般的。元々は新年などに小鼓などの音曲に合わせて踊る奉祝の民俗芸能で、江戸時代に「尾張万歳」「三河万歳」などが全国各地に興った。
明治に入ると言葉の掛け合いなどが加わって滑稽味が増し、江州万歳の音頭取りだった玉子屋円辰が明治30年代の後半から活躍して、笑いの部分を拡大させ、演芸の体裁を整えていた。
千日前三友倶楽部の興行では、大正から昭和にかけて安来節の合間に数組の万歳師が出演した。これは正之助のアイデアで大好評を博し、万歳師も急増する。大正11(1922)年には吉本所属の万歳師はわずか7組だったが、数年で200組以上にまで増えた。
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