直虎が「おんな城主」となっていく経緯とは
2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎は、徳川家康を支えた徳川四天王の一人・井伊直政の養母とされるが、井伊家の系図にも歴史書にも名前がない。はたして、井伊直虎はどんな経緯で「おんな城主」となっていったのだろう。
直虎は井伊家22代・直盛の一女
わずかに残る史料は、彼女の出家名「次郎法師」の署名が残る寄進状と、彼女の花押が書かれた徳政令の2文書だけとされる。彼女の実在を疑う説さえもある、いわば「謎の女性」である。
井伊直虎は、井伊家22代・直盛の一女で、祖父の兄弟の息子・直親と結婚するはずだったが、時代がそれを許さなかった。
当時の井伊家は、「海道一の弓取り」と称された今川義元の支配下にあり、井伊家の男子は次々と戦死し、あるいは殺害されていく。世に名高い「桶狭間の戦い」で、今川義元が織田信長に敗れ、歴史が大きく動いた。
直虎がおんな城主として現れた
その渦中、井伊家にとっても大きな事件が起こっていた。今川軍に参加していた井伊家の当主で、直虎の父・直盛が戦死してしまう。さらに、直盛の跡を継いだ、直虎の元許婚・直親も謀略によって殺害される。
これによって、井伊家の血を継ぐ男子は、直親の子で、まだ幼い虎松(のちの直政)だけになってしまう。その虎松さえも命が危ない……。井伊家は、まさに一族滅亡かという状況にあった。
だが、ろうそくの火が消えようとしたその瞬間に炎が激しく燃えるように、突如おんな城主として世に現れたのが「次郎法師=直虎」だった。この大胆な計画を企てたのは、直虎の大叔父で、直虎が身を寄せていた龍潭寺の南渓和尚だったといわれる。
■「おんな城主・直虎」おすすめ記事
井伊直政は厳格だったために部下に恐れられた
井伊直政は「高崎」という地名の名付け親だった
次郎法師が直虎と名を改め当主となるまでの経緯
おんな城主・直虎が徳政令を実施しなかった理由
■「『わろてんか』吉本せい」おすすめ記事
『わろてんか』モデルの吉本せいが歩んだ60年
吉本せいが悩まされたのが姑のいびりと夫の放蕩
「安来節」と「万歳」が吉本芸人の源流だった
吉本の東京進出と関東大震災の意外なつながり