吉本興行創業者・吉本せいの大阪商法の原点とは
吉本興業の創業者である吉本せいは明治22(1889)年12月5日、兵庫県明石市で生まれている。父の林豊次郎は明石藩士の家に文久元(1861)年、母のちよはその3年後、元治元(1864)年に生まれた。この両親が27歳と24歳のときに誕生した三女が、せいだった。
吉本せいは小学校を出てすぐ奉公
明治2(1869)年の版籍奉還・廃藩置県によって録を失った武士たちのなかには商売を始めるものもあった。林家も同じで、豊次郎はせいの誕生後に大阪に出て、天神橋5丁目で米穀商を営んだ。やがて信頼を得て当時の大会社だった天満合同紡績に精米を納めるまでになる。
ただし、多くが幼少で亡くなったとはいえ、せいには12人もの兄弟姉妹があったため、尋常小学校を出てすぐに船場へ奉公に出ることになった。
奉公先は節約・倹約を第一に考える商家で、わずかな無駄遣いも厳しく叱責された。後年、せいは生きた金を惜しみなく使い、無駄なものには一切投じない大阪商法で成功する。その考え方はそんな奉公で培われていたのだろう。
吉本せいは8人の子どもを授かった
林家のような子だくさんは当時としては決してめずらしいことではなかった。乳幼児の死亡率が高かった頃だけに、むしろそれが普通だったのだ。
せいが生まれたとき、その上には長男信之助、次女きくがいたが、すでに長女は夭折。その後、次々と9人の弟妹たちができたというが、そのうちのふたりがのちにせいとともに吉本興業を支える正之助と弘高(初名は勝)だ。
また、せい自身、夫の吉本吉兵衛(初名は吉次郎、通称は泰三)との間に8人の子どもを授かったが、成人したのは娘3人と次男の穎右(初名は泰典)だけ。さらに、唯一の後継者と頼んだその穎右も、結核のため24歳でこの世を去ることとなってしまう。
頴右が生まれた翌年、夫の吉兵衛が志半ばで倒れる。その遺志を継ぎ、せいと手を携えて残された吉本興行部を盛り立てていくのは、せいのふたりの弟だった。
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