吉本「花月」の名付け親は売れない落語家だった
大正2(1913)年1月、吉本吉兵衛・せい夫婦は吉本興業の前身となる「吉本興行部」を設立した。そして翌年には福島の「竜寅館」、松島の「芦辺館」、梅田の「松井館」、天神橋筋五丁目の「都座」を手に入れ、経営地盤の拡大に乗り出した。吉本「花月」が誕生する。
吉本興行部が法善寺の金沢亭を買収
吉本興行部が岡田政太郎率いる落語反対派の力を借りて勢力を拡げるのに伴い、岡田の反対派も、松屋町の「松竹座」や堀江の「賑江亭」などを傘下に収めていく。これらに追い立てられ、明治期に隆盛を誇った桂派と三友派は衰退の一途をたどっていた。
そして大正4(1915)年、吉本興行部は法善寺の金沢亭を買収する。金沢亭といえば桂派の本拠で定員220人の由緒正しい寄席。席亭だった高利貸しの金沢利助は、その格式をもとに1万5千円という当時としては破格の売値を提示するが、吉兵衛とせいは言い値で買いとった。
このとき、吉本せいの夫婦は方々から借金してまで金を工面した。そこまでして、金沢亭の買収にこだわったのは、「一流の寄席に一流の芸人を集めたい」という夢があったからだった。
吉本「花月」の名付け親は桂太郎
最初にふたりが手に入れた第二文藝館は「端席」と呼ばれる小さな小屋で、その後買収した寄席も一流とはいい難いものばかり。そのため、なんとしても一流の寄席である金沢亭を手に入れたかったのである。
買収後の一時期、蓬莱館という名称にしたが、のちに吉本夫婦はその名称を「南地花月」と改めた。「花月」は今日の吉本の劇場にも受け継がれているが、その名付け親は桂太郎という易を得意とした売れない落語家だった。
また、この「花月」という名称には、「花と咲くか、月と翳かげるか、すべてを賭けて」という夫婦の意気込みが込められている。
その後、吉本発祥の地である第二文藝館を「天満花月」とするなど、ほかの寄席も「○○花月」と改められ、「花月」といえば吉本というようになっていく。
大正8(1919)年、吉本は三友派の有力な寄席だった北新地の「永楽館」を買収し、「花月倶楽部」と改めた。同時期、盟友の反対派は京都へ進出。新京極の富貴席などを手に入れ、勢力を広げていった。
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