吉本せいが芸人の心をガッチリ掴んだ心配りとは
明治45(1912)年4月1日、吉兵衛・せい夫婦は大阪天満宮裏にある第二文藝館を買収し、寄席経営を始めた。このあたりには「天満八軒」と呼ばれる8つの小屋が並び、飲食店も密集して大変賑わっていた。だが天満八軒の小屋はどれも格が低く「端席」と呼ばれ、第二文藝館はそのなかでもとくに客入りが悪かった。
第二文藝館も色物中心の興行となった
当時の上方演芸界は、陰りがみえてきたとはいえまだまだ落語中心。寄席を大入りにするには人気の噺家を出演させるのが手っとり早かったが、出演料が高かったのである。そこで目をつけたのが、「浪花落語反対派」だった。
明治後期の上方落語界は桂派と三友派が対立していたが、それとは別の第三勢力として「なんでもありの笑い」を武器に台頭。その芸人たちは桂派や三友派の噺家たちに比べて出演料が安かったのだ。
彼らは落語よりも色物(曲芸、剣舞、踊り、義太夫、軽口、女道楽)の芸人が多く、第二文藝館も色物中心の興行となった。
吉本せいが芸人の心をガッチリと掴む
第二文藝館の収容人数は150人から200人と、小規模だったが、吉本夫婦はさまざまな工夫を施して客の回転や売り上げを増やした。
たとえば、あえて換気せずそのままにして客の入れ替えを促し、雨やどり客が詰め掛けた際には木戸銭を10銭に設定して、ふたり分の入場料を得るなどしていた。
また人件費を抑えるため、吉本せい自ら木戸口に座って客の対応や客席でお茶子の仕事をするなど、精力的に働いた。楽屋では芸人の身の回りの世話をして、汗まみれになった芸人の背中を手ぬぐいで拭くこともあった。こうした細やかな心配りが芸人たちを喜ばせ、彼らの心をガッチリと掴んだのだ。
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